ワーキングホリデーの現状

私はワーホリという制度を二度経験した。一度目はNZ。この時は、とにかくこの制度を利用して思いっきり好きなことをして、暴れてやろうという気でいた。二度目はカナダ。この時は、将来の技術のために英語力の取得という意味で、毎日仕事をしながら英語を勉強していた。両ワーホリとも完成度として考えると、自分の中ではかなり高い。NZの時は浅く広く、カナダは深く狭くといった感じで、全く違う生活を同じ権利を利用して堪能できた。

ワーキングホリデーは、限られた国々の人だけが持つ貴重な特権だ。簡単に海外で働け勉強もできる。旅もでき、とにかく外国という土台で好きなことができる。ワーホリで海外に行く連中は、もちろん何かの目的、希望を持って行く。しかし、実際に自分に満足している連中は、全体の1割もいなかったと思う。それよりも、ドロップアウトした連中や、自分の不甲斐なさを帰国間際に嘆いている奴等がほとんどであろう。結局は、自分の甘さを痛感して帰って行くだけ。「ワーホリ体験記」という名目で、ワーホリ経験者の体験談を載せ、本を出版している会社が数社ある。はっきり言おう、ああやって満足している連中はほとんどいない。そういった成功談を載せないと本が売れないのだ。考えても見よう。ワーホリを満足しなかった連中は、恥ずかしくて原稿も書けないはず。そして、その成功談ばかり読んで、新たな若者がワーホリ生活をスタートさせる。

「ワーホリって楽しいはずじゃないの?

大きな誤解だ。

ワーホリで来ている連中は、必ずと言っていいほど始めに英語学校に行く。ホームステイ先やフラットから、私立の少人数制の学校に通う。私立の少人数制学校では、その生徒は日本人と韓国人がほとんどである。そして、閉鎖的な日本人は固まることとなる。学校にいる間の数時間は英語を話す。しかし、それが終われば日本人社会。クラスメイトと一緒にご飯を食べに行き、その後は飲みに行ったりカラオケに行ったり。まだ、フラットに住んでいる連中はいいが、ホームステイしている連中が帰宅する頃はホストファミリーはもう寝ている。大体、夜10時以降は地元の人にとっては寝る時間帯で、それ以降は電話を掛けるのはすごく失礼にあたるが、日本人にとって夜10時はまだまだ寝る時間でもない。そして、日本と同じように電話を掛けて周りからの迷惑を買う。ホームステイ先が日本人を受け入れるのに一番迷惑するのが、夜の電話らしい。今のワーホリ連中は携帯電話を持つようになったので、まだましだと思うが。結局、折角の海外での生活なのに彼らは日本と同じ事をしている。

「もう半年も学校に行ってるんですけど、全然英語がうまくなりません。」

そんなんでなるかい。

あと、目的を失った連中も多くいる。それは自分の描いていたワーホリ生活と現実とのギャップに気付いたからであろう。ひどい人は、ノイローゼになり薬にはまっている。都会で日本と同じような生活を送っていた連中が、その場所からもう移動できなくなる。

「行動しないといけないんですけどできなくて。もう時間もないし、今まで何をしてきたんだろうと思うと、悲しくなってきます。」

私は何度も言った。

「しがらみの強い日本で、自分の経歴に穴を空けてここに来たんやろう?それはすごいことをしたんやで。そんなのに比べれば、ここからどこかに移動したり、何か新しいことを始めるのは全然たいしたことではない。もっと自信を持って。」

ワーホリの権利の特徴は、何と言ってもその国で自由に働けることにある。海外で働くというのは、すごくいい経験になる。日本料理屋でもいい。自分で仕事を探して、言葉、文化の全く違うところで働く。いくら経済大国日本でも、言葉のできない現地に行くと、我々は一外国人労働者に過ぎない。いい仕事に就けるのは難しく、いわゆる最低賃金の労働が主流となる。私がNZにいた頃は、年齢制限30歳までワーホリ可能な国はNZしかなかったので、NZのワーホリ連中はある程度日本で仕事してお金を貯め、そしてNZでは思いっきり好きなことをするという考えでいた人々が多かった。結局、彼らは1年間で100万円以上は使っていたと思う。200万円を超えている連中も多かったが、通貨のあまり強くないNZで、どうやって200万円も消費するのだろうと私はいつも不思議に思っていた。もちろん、そういった人々は仕事をすることなくワーホリを終えるが、私は何度も働くように言った。

「とにかく、海外で働ける経験なんてなかなかできない。それに、日本で使われている外国人の気持ちが何よりも理解できる。これは、将来的にもプラスになると思うよ。」

そう言っても、彼らは日本で散々働いてきたのか、最低料金の仕事をなんで外国まで来てやらないといけないのかと思っているようで、結局は私のアドバイスはいつも無駄に終わっていた。

人のワーホリ生活に私がとやかく言う権利はない。ただ、困っている連中があまりにも周りに多くいた。NZのワーホリ連中は年齢層が高かったのでましだったが、OZのワーホリ連中はひどかった。ちょっとあのひどさは信じられなかった。20歳前後の学生が中心で、お金は親から仕送りをもらっているはず。だから、お金の使い方を分かっていない。ケアンズのカジノに行った時なんて、毎晩ワーホリ連中が多くのお金をカジノに吸い取られていく。あの彼らの会話は情けなかった。

ワーホリのように、同じ国で長期過ごすとなると、生活がroutineになりがちになる。アジア諸国を旅している時は、国が変われば言葉も文化も違って、いつも新鮮な気持ちでいられるが、ワーホリはそういうわけにはいかない。私はいつも生活のめりはりを重視していた。旅が続くと仕事がしたくなり、仕事が続くと旅をしたいというmotivationが高まる。その度に生活環境を変え、いつも新鮮な気持ちになるように自分をコントロールしていた。カナダにいる時は、同じ所に同じ連中と住み、同じ仕事をずっとしていたので、その気持ちの持って行き方は色々考えた。長くなればなるほどルームメイトの悪い部分も見えてくる。そのため、彼らとの距離をいつも取り、生活自体も大体月ごとに自分なりに変化させていた。結局は、ワーホリ生活は自分自身との戦いでもあり、それは旅以上に大変だ。環境が変わらない分、うまく自分を持っていかないと、ドロップアウトという結末になりかねない。

旅、ワーホリもそうだが、一番いい終わり方は、

「いやー、し残したことがいっぱいある。また帰ってきたい。」

ということであるが、それプラス、

「まだまだしたいことがあるが、もう一度同じ生活をやれっと言われたら断る。」

という気持ちだ。なぜなら、いいこと、いい経験は多くしたが、それと共に辛い経験もたくさんしたからだ。その辛さは身体に染み込んでいるので、同じ経験はもうごめん。つまり、いい面と悪い面両方を経験し、その国の裏表両方とも肌で感じたってのが最高の終わり方のように思う。それでも、その国が大好きって思えるのはもっと最高だ。

いい情報ばかりに流されて、物事の本質を理解していない連中がここ最近多くなってきている。ワーホリは誰のためのもの?もっと時間を大切にしてほしい。周りは周り。自分は自分。情報はあくまでも情報。もっと強い意志を持って、限られた国しか持っていない特権を存分に堪能してほしい。

 

 

英語を学ぶ

語学の習得はそんなに生易しいものではない。特に、英語は日本語とは語源が全く違うのでなおさらだ。人間の言語習得能力は本能にある。つまり、ある程度脳が形成されてからの言語取得は、その脳内に新たな言語を認識する分野を作らないといけない。それには理性が障害となり、言語取得にはかなりの時間と労力を要する。大体、人間の脳細胞の活発化は大学入試ごろから低下し始める。だから、社会人になってからの学習能力は学生のようにはうまく機能しない。私のイングランドのある友人が、

「英語なんて簡単だよ。26文字の組み合わせでしかない。それに比べて、日本語は覚える文字だけでもいくつもあって、それをうまく使い分けている日本人は偉いな。どうりで日本人は頭がいいはずだ。」

と言っていた。英語はたかが26文字の組み合わせだが、勉強すればするほどその奥深さを知る。いやー、本当に大変だ。

海外に留学やワーホリで英語を習いに行く人が多くいるが、彼らは少し勘違いしてる。

「何のために英会話学校に行くのか。」

という問いに、

「英語を勉強するため。」

と皆答える。しかし、私からしてみれば、彼らが学校に行くのは、「学校に行く」という行為をしているだけで、

「学校に行くことが勉強をすること。」

と勘違いしている。大事なのは、

「勉強をするために学校に行く。」

ということだ。

「掃除とはどういうことか。」

という行為に対しても、私から言わせれば、人々は、

「掃除機をかけること。」

という行為が掃除をすることと勘違いし、

「ゴミを取るために掃除機をかける。」

という根本的な目的を意識していない。私が礼文島で働いている時のヘルパーを見て特にそう感じた。

もし、世の中に英語学校というものがなかったら、彼らは一体どうするであろうか。日本人のようにお金を持っている連中は、お金という手段を使ってなんでも物事を解決しようとする。逆に、貧しい人々は学校なんて別世界で、例えばアジアの貧しい農村では学校よりも家事の方が大切と考えられている。同じ日本でも、礼文島では昆布の解禁日は学校が休みになって、子供たちは昆布干しを手伝う。

高い銭を払っても、学校が終われば日本人の場合は日本社会に戻り、もちろんまだ海外にいる方がましだが、日本でも海外でもどこにいても日本人は同じだ。英語を勉強したいなら、別に学校に行く必要はない。英語圏に行くと周りはみんな英語を話す人々。つまり、周りは先生だらけで、彼らと一緒にいるだけでかなり勉強になる。

私はNZにいる時に、あるスペイン人の女の子と知り合った。その時の彼女の英語力はまだまだだったが、その半年後に偶然再会した時の彼女の英語力の上達には非常に驚かされた。

「あなたたち日本人はどこにでもいる。だから、日本語で通じるし、周りが日本語に合わせてくれることもあるでしょ。しかし、私たちはそうはいかない。スペイン人は周りにいないし、私たちがこの国で生きて行くには、英語を話さないとやっていけないの。」

と彼女は語ってくれた。アリススプリングスで会った韓国人、ロスであったエストニア人も同じようなことを言っていた。

海外で英語を取得するというのは、ある意味日本人には過酷かもしれない。閉鎖的、恥ずかしがり屋の国民性が積極性を制御する。例えば、外国人との初対面の時、仮に彼らが我々の名前を聞き取れなかったら、必ず聞き返す。しかし、日本人は聞き取れなかっても知ったかぶりをし、そのことは普段の会話でも同じである。人間、どうしても自分に甘いので、周りに逃げ道があったらそっちに行ってしまう。韓国人にも言えることだが、言葉の障害がある人間ばかりが周りにいると、どうしても同じ気持ちの連中が固まる。お金があって、学校という選択肢があって、周りには日本人だらけという環境は、気温50近い砂漠で、喉がからからの状態の時に、周りに冷たい水と、クーラーの効いた部屋があるようなものだ。

飲み屋は語学の取得には持ってこいである。少し酔って、本能を制御している理性の働きを緩め、そこで地元の人々と英語で話す。しかし、日本人は海外の飲み屋に抵抗があるのかあまり見掛けないし、行くとしても日本人が集まる飲み屋に行く。ものを学ぶという行為は自発的なもの。何かに頼るのはよくない。特に、本能の働きの学習は努力と根気が必要。1年そこそこの留学で語学がうまくなる訳がない。

「英語が話せる。」

という人も、結局は辞書のすべての単語を知っている訳でなく、もちろんnativeの人だって知らない表現や単語はある。日本人もそうで、すべての日本語を知っている訳でなく、分からない時はその時々で学んでいく。学習に終わりはない。何年か留学して日本に帰ればそれで終わりではなく、その学習は本当に自分がしたいのなら、いつでもどこでも続けるべきだ。

 

 

アングロサクソンの世界

私は、NZOZ、カナダ、そしてアメリカとアングロサクソンの国を経験した。アングロサクソン社会は私の性格に合っていて、居心地がいい。変な縦社会はなく、人が陽気で明るい。のりもよく一緒にいて楽しい。子供も大人も対等の立場で話す。話す時はちゃんと相手の目を見て話し、歩き方も背筋が伸びていて格好いい。意見をはっきり言ってくれるので、楽と言えば楽だが、個々が妥協しない時も多くあるので、そういった場合は大変である。英語が世界の公用語になっているので、結局はいつも我々が彼らに合わすこととなり、彼ら自身で新しい言語を取得しようとする割合は、他国に比べると圧倒的に低いであろう。

一般的に、NZ人、OZ人は同じ、カナダ人、アメリカ人は同じと考えられがちだが、それぞれ全く異なる。あえて組み分けすると、NZ人とカナダ人グループ、OZ人とアメリカ人グループに分かれるかな。NZとカナダは土地柄も国民性もよく似ている。きれいな大地に大らかな人々。人はのびのびと生活し、仕事よりも自分たちの生活、趣味を取るといったところか。ただ、その分自分たちの生活に経費を費やすような感じで、ビジネスという点で考えると、後手に回っている気がした。住みやすく居心地がいいが、向上心が感じられない。しかし、住むには最高のところで、はまればはまるほど抜けられなくなる。

OZ人は少し気が強い感じ。自分たちに誇りを持ち、移民を特に嫌う傾向があったように思う。土地が広大な分、内陸と海側の人々は違った人種のように思えた。もちろん、アメリカやカナダにも同じことが言える。

アメリカ人は世界の嫌われ者。アメリカほど嫌われている国はないであろう。野球で言うなら巨人。巨人の選手は気が付かないが、周りの他の球団はかなり巨人を嫌っている。アメリカ人は、「アメリカは常に正しい。」ということをどこか頭の片隅に持っている。一言で言えば、何でもありの国。色んな民族が混じり合い、様々なタイプの人々がいる。そして、自己主張が強い分、周りから見ると収拾が付かなくなっている。ただ、アラスカはまた違う。アラスカはどちらかというとカナダ的。厳密には、カナダともまた違い、アメリカでもなくカナダでもなく特殊なところ。

アングロサクソンの人々は、自分たちの生活を大事にし、個々で趣味を持っている人々が多い。仕事のない週末は、その生活を楽しんで、金曜日と土曜日の夜の盛り上がりは異常だ。パーティもよく開く。誰かの誕生日やクリスマスを非常に大事にする。クリスマスは休日で、新年以上に彼らにとっては大事な日。プロスポーツに対する国民の思い入れも熱く、南半球ではラグビー、カナダはアイスホッケー、アメリカでは野球、アメフト、バスケ、そしてアイスホッケー。その時々の観客の反応は面白いものだ。NZOZはお互いにライバル心むき出し。カナダはアメリカに対してライバル心を異常に持っているが、先にも述べたようにアメリカは巨人なので、アメリカ事体はカナダに対して特にどうこう思ってる様子はない。単なる一人のお隣さんってとこだろう。

私はすぐにでも英語圏に戻りたい。英語圏にいなくても英語を話す生活に戻りたい。それだけ、私の性格に英語社会は合っている。

 

 

アングロサクソンによる代償

元々イギリスに住んでいたアングロサクソンは、NZ、オーストラリア大陸、北米と先住民の土地を奪い取った。NZではマオリ、OZではアボリジニー、そして北米ではインディアン、エスキモーとの問題が今でも続いている。

アングロサクソンはその代償として、先住民に金銭的な援助を行っている。これによって土地を奪った本人たちは、少しでも償いをしたと思っているが、私から言わせればそれは彼らの自己満足に過ぎない。先住民との関係をお金で解決しようというその態度はどうかと思う。継続的な金銭の援助は、結局はその人々を堕落に追い込むことが多い。資本主義社会の中で、社会主義社会が存在するようなもの。比較的、マオリは社会に溶け込んでいるが、OZのアボリジニーや、カナダ、アラスカのインディアンはひどいものだった。彼らは隔離されたところに押し込められ、社会に取り込んでもらえないでいる人々もいる。その結果、彼らは朝からすることがなく、ぼーっとしているか、酒に浸っている。アボリジニーが酒を買わせてもらえない地域もある。アラスカの街から外れたインディアンの村では、その生活保護に政府の役人がいるが、街中は無法地帯。けんかをしたり暴れたりと、その態度はなんとも情けない。元々、インディアンはお酒を飲む習慣がなかったので、遺伝的にも飲酒は健康によくない。100年やそこらで遺伝子が変わる訳なく、医学的にも多量のアルコール摂取は命や脳の危険を促す可能性がある。

結局、アングロサクソンにしてみれば、

「我々はその償いとして最大限のことをしている。」

と言って自己を美化しているが、先住民との問題はそんなに簡単な問題じゃないはずだ。なぜ、政府は先住民を特別扱いして社会に溶け込ませないのか。もっといい保障方法があるはず。そのくせ、彼らの文化を観光の売りに利用している。全く矛盾した行動だ。先住民にも問題がある。折角、いい文化を持っているのに、もっと自分たちにプライドを持ってほしい。

アメリカの場合はこれに黒人問題が絡む。アメリカは世界的には経済、軍事、技術と様々な分野で世界最高に位置するが、果たして自国の人権問題はどうだろうか。多くの黒人たちがホームレスとして街中にたむろする。アメリカ人は自己主張が強いので、アメリカのホームレスは非常に攻撃的だ。

「おい、銭くれや。」

といった攻撃的な口調であり、無視して通り過ぎると罵声を投げつけてくる奴もいる。一度ある黒人が、

「我々は奴隷として連れて来られて、嫌々アメリカに来た。そして、差別的な対応が今でも残っていて、社会に溶け込ませてくれない。我々に自由はない。」

と路上で言っていたが、それはどうかと思う。確かに、彼らが奴隷としてアメリカに連れて来られたのは事実だが、それは過去のことで今の人々には関係ない。アメリカ社会がどれだけ黒人を許容しているかは、実際のところ詳しく知らないが、多くの黒人が幅広い分野で活躍し、特にスポーツ界では元々の彼らの潜在能力はアングロサクソン以上である。結局は、過去を言い訳にして自分たちで甘えているような気がする。これは、他の先住民にも通じる。このことを、ロスの宿で知り合ったナイジェリア人に言ってみると、

「それは黒人以外の人々の考えで、確かに間違っているとは言いませんが、実際は黒人に対する差別はまだまだ残ってます。まだまだ見えない差別があるんですよ。」

と言っていた。

結局のところ、アングロサクソンが行った代償は一概にいいとは言えないが、一方で先住民の今の態度にも問題がある。このまま現在の社会保障制度が続くようなら、今の状態が解決できないままであろう。どっちもどっちだ。

 

 

ゲイとレズビアン

世界の人口の10%は同性愛者と言われており、私が半年過ごしたカナダ、バンクーバーでもその比率は日本に比べてはるかに高いように感じたが、彼らはしっかりと人権を得ている。日本でもこれぐらいの比率で同性愛者がいてもおかしくないのだが、まだまだ社会的な影響で人権を得るには程遠い。

私が働いていた職場でもゲイが2人、レズが3人いたが、だからと言って別にどうってことない。彼ら自身堂々とゲイを宣言し、皆と同じように働いている。履歴書にゲイと書いてくる人もいる。ゲイの人々が集まるpubもあり、新聞社でゲイのページを持っているところもある。NZのオークランドやOZのシドニーでは、毎年ゲイパレードがあり、シドニーやバンクーバーでは特に同性愛者の比率は世界的にも高い。ちなみに、一番ゲイの比率が高いと言われている都市は、アメリカのサンフランシスコだ。

アメリカ、カナダ、NZOZなどの多民族国家では、色んな人種、色んなタイプの人々がいるので、来るものは拒まずってのがあるのかもしれない。その点、日本などの単民族国家、歴史の長い国では、まだまだ昔からの固定観念が、新しいものに対する許容を邪魔してるところがある。特に、年齢層の高い世代には、まだまだ、「同性愛者=エイズ」という方程式が頭の中にあるのだろう。この辺りのことは、最近読んだ"Japan Times"にも記述してあった。このことをバンクーバーの連中に言ってみたら、

「なんて悲しいことなの。」

と嘆いていた。日本で同性愛者が人権を得るのはまだまだ先のことであろう。

医学的には、ゲイの人々自体に責任はない。当然、環境、後天的なものが作用して一概にそうは言えないが、微妙なホルモンバランスの違いは先天的なものである。つまり、遺伝的なものなので、彼ら自身をとがめる必要性はない。異性を愛するという固定観念に反して、同性が好きという自分の正直な気持ちに従うということは、ある意味繊細な心を持っていると考えられる。だから、親友がゲイであるという人も少なくない。

私の周りにレズでありながら子供がいる人がいる。彼女は人間的にもいい人で、夫はいないがガールフレンドはいる。つまり、ドナーを探して、人工的に妊娠させて子供を産んだ。こういったことが向こうでは可能らしい。しかし、私がいまいち彼女に同意できないのは、生まれてきた子供のことだ。子供は6歳の男の子。どのように子供に伝えているのか知らないが、この環境のせいでこの子がいじめれ、嫌な思いをしたら・・・。生まれてきた子供自体に何ら責任はない。この辺のところは、私が関与する管轄ではないが、正直なところ、このレベルまで来ると何が正しいのか、何が悪いのか自分の価値観がわからなくなってくる。もうなんでもありなのか。

最後に一言。私はゲイは嫌いだ。しかし、ここで一つ断っておく。これは、良い・悪いの問題ではなく、好き・嫌いの問題である。何度も言うようだが、彼ら自身何も悪くない。これを読んでいる皆様の中で、まだゲイの人々に対して偏見を持っている人はその考えを是非改めてもらいたい。単純に考えてほしい。彼らも同じ人間であって、同性が同性を好きになるのは何も悪いことではない。

 

 

ゲームの流れ

私はNZにいる時にカジノを覚えた。私は以前からギャンブルは競馬だけと決めており、カジノに対しては余りいいイメージを持っていなかった。しかし、「ブラックジャック」というゲームを知ってからその価値観は変わった。

ブラックジャックは、ギャンブルというよりもゲームと言った方がいいだろう。覚えると非常に面白く奥深い。そして、他のゲームと違ってチームプレイでもある。

「ギャンブルなんて運でしかない。」

と思っている人々が多いが、そういった人はブラックジャックのテーブルには来ないでほしい。周りが迷惑する。

ゲームには流れがある。スポーツ競技はそれが顕著で、一つのプレイがその流れを簡単に変える。ブラックジャックもそう。客のカードの引き方によっては、その流れが非常に左右され、折角こっちに傾きかけた流れも、無知な客一人によって簡単にディーラーに流れる。カジノの世界は、勝負に何回勝とうが負けようが、結局は持ち金がその勝敗を決める。1勝9敗でもお金が浮けば勝ち。ブラックジャックもそうで、一般的に67割の確率でディーラーが勝つようになっているが、仮に10勝負して、7回負けた時に$10しか賭けず、3回勝った時に$30賭けていれば、結果として$20浮いたことになり、勝負としては勝ちとなる。ただ、問題はその3回勝つ時をどうやって見極めるかだ。これには、あとは経験で空気を読むしかない。私はブラックジャックに関してはまだまだ仮免状態である。理論は完璧に把握したが、あとはもっと実践を積まないといけない。

結局、ブラックジャックに関しては、いい流れをいかに読むかが重要である。いついい流れが来るか分からない。要は、自分に向かって来るいい流れを根気よく待てるかどうか。つまり、カジノは自分にいい流れが来るのをひたすら待てる人間が勝つことになる。という事は、結局はカジノは金持ちが勝つようにしくまれてる。大体の人は、いい流れを待つ前にかっとなって多めに賭けて破産する。

旅をしていると、どう考えてもつきがない日がある。もしくは、ある町に移動してどうも物事がうまく行かないといった事を経験する。直感で周りの空気を読むというのは、ブラックジャックのみならず、どの分野でも通じるはずである。「笑い」の間もそうだ。自分の周りの空気が悪い時は無理をしないで、調子の悪い日は無理しない。一番悪いのはそういった時に冷静さを失う事である。

 

 

ボランティアって何?

カナダやNZではボランティア活動が高く評価される。そのせいか、ボランティア活動を試みようとする日本人も多く見た。そういった人々は、

「ボランティアがしたいんです。どうしたらいいですか?」

「今、ボランティアをやってます。」

とやたら強調する。そしたら、そういった連中に逆に質問したい。

「ボランティアって何?

私はこういった社会の認知方法が大嫌いだ。

インドのカルカッタにいる時の出来事。カルカッタには故マザーテレサの「マザーハウス」がある。カルカッタのサダルストリートの安宿から、そこにボランティアに赴くバックパッカーを多く見た。インドはホームレスがどこにでもいる。特に、カルカッタは人口が密集し、ホームレスの人々も多い。私は、ボランティアという名目でマザーハウスに行く連中が、その道中にいるホームレスは無視して、なぜハウスにいる人々のみケアするのか不思議に思った事があった。

結局、ボランティアと強調してほざいてる連中は、

「自分はいい事をしている。」

という事を組織に入って自己満足しているだけだ。どこかの民放局が、毎年24時間テレビ放送をし、人々から募金を呼び掛けているが、確かにスタッフとして見返りなく全国各地でがんばっている人々は偉いと思う。しかし、肝心の司会のタレントは、人に、

「銭払え。」

と言いながら本人たちが莫大なギャラをもらっている。そして、彼らは、

「自分達はいい事をしている。」

と自分を美化する。そしたら、お前らのギャラを全部寄付せんかい。人助けの番組違うの?人には銭を払わせ自分達は銭を受け取る。一体、どんな番組なのだ。

何か困っている人がいれば少しでも手助けになるようにと、自分なりにできる事を何かする。人によくし、何かいい情報を与えると、面白い事に、それらがいつかは自分に返ってくる事となる。自分自身が人からよくされたり、困った時にいい情報が入ったりと。結局、相手のために何かするという事は自分のためになる。

阪神大震災の時に、自分も何か手伝いたいと自発的に現地に赴いた人が多くいた。NYのテロの時も、同胞のために全米から自分の生活そっちのけでNYまで足を運んだ人が多くいた。こういった人は、

「自分はボランティアをしている。」

と自慢はしない。その行為について当たり前と認識し、自分の意志の赴くままに行動し、周りからの見返りも期待しない。ボランティアは英語では"volunteer"。意味は志願者。つまり、元々の意味は自発的な行為であって、何かの組織に属して行動し、自己満足する事ではない。どうも形のある組織に入って行動したという行為が強調されて評価されるが、本当のボランティアは他人からの評価など意識せず、自らの意志で何か人のためにがんばっている人のことを指す。ボランティア活動は形で評価するものではない。

私は募金を呼び掛けてくる連中や、何かを求めてくる団体には絶対寄付しない。そういった団体に対して信頼を寄せていないし、折角の我々の好意が、本当に本来の目的に還元されるのか疑い深いからだ。人を通すぐらいなら、自分から直接その行動に出る。仲良しクラブには興味ない。

 

 

ヒッチハイク哲学

〜理論編〜

私は旅先でよくヒッチハイクのコツを聞かれるが、はっきり言おう。ヒッチハイクは運である。それ以外の何物でもない。ただ、一般的な最低限すべき事はあるので、それらを中心に私なりの「哲学」を書いてみる。

まず、一番重要視しないといけないのは、運転手の立場でものを考える事だ。車が停まりやすい所をまず探す。路肩がなるべく広い所で、運転席から目につきやすく、車がスピードを落しやすい所だ。交差点の少し先とか、特にroundaboutの先は効果的。

次に、できるだけ運転手からの恐怖感をなくす。旅行者である事を分からせ、彼らに危害を加えない事も分からせる事が大事。だから、ヒッチボードで行き先を書くのは効果的である。ただ、雨の日は極力避ける。運転手は濡れた人を乗せたがらないし、仮に我々が運転手の立場でも同じ気持ちであろう。

町中のヒッチははっきり言って難しい。まず、車が停まりにくく、遠くに行く車の割合も低い。こういう時は、町外れまで歩くか、路線バスがあればそれを利用するのもいいし、あらかじめ地元の人にヒッチポイントを聞くのもいい。

もし、自分より先にヒッチハイカーがいたら、暗黙の了解で下流に回るのが礼儀である。ただ、頭を使えば、あとで来たにもかかわらず車をgetできる方法がある。それは、前に立っている人のわずか20mほどの下流位置で立つと、前のヒッチハイカーに気づいた運転手がブレーキをかけ、最終的に停まるのは自分の前となる。運転手はどちらのヒッチハイカーであろうが気にしない。しかし、こういう時は必ず運転手に、前に立っているヒッチハイカーも乗せてもらえないかと頼むのが思いやりである。ヒッチハイカー同士は同じ場所にいる時は敵同士だが、そこを離れれば同じ辛さを味わう同士。ハワイ出身の曙と武蔵丸みたいなものだ。

一般的に、交通量が多いほど車はつかまりやすい。よって、目的地に二通りの行き方があるなら、交通量の多い道を選択するのが普通だが、これはあくまでも一般論で、交通量が少ない道の方が、車が情けで停まってくれる事もある。だから、始めに述べたがヒッチハイクはすべて運次第。ヒッチ経験が長くなるほど、理論では語れない空気が分かってくる。ヒッチには必ず流れがある。その流れを待ちきれるか。いい流れがすぐ来る時もあるが、大抵何時間も待つ事になる。

統計的に考えても、NZではそれほどでもなかったが、カナダ、アラスカのヒッチは車獲得率は1%もなかったと思う。それだけヒッチは難しく、人々はヒッチハイカーを乗せたがらない。仮に1%の確率とすると、車が多い通りでは、100台待って1台得られるという事になるが、その待ち時間も少なくて済む。逆に、車の少ない通りでは、それだけ時間を待たないといけないという事になるが、これはあくまでも理論で、実際は人情という計算できないファクターが絡んでくる。つまり、田舎ほど人は親切なのだ。だから、何度も言うがヒッチハイクは運でしかない。あとは、最低限守るべきルールを守って、ひたすらその運を待つのみ。

乗せてもらいやすい順序としては、一番楽なのが女の子一人のヒッチ。これはかなり高い確率で成功するが、その分危険性も多く含んでいる。次は、女の子2人。私が一番お勧めするパターン。その次は、男女のカップル。乗せてもらう運転手に男が多いので、こういう時は女の子が助手席に座るべし。次は、男2人で、一番難しいのは、私のような男一人のヒッチであろう。しかし、男一人が時として一番楽になる時がある。それは、運転手がホモの場合だ。よって、やはりこれも運次第。とにかく、ヒッチは運でしかない。

〜楽しみ方編〜

私がヒッチハイクに拘るのには様々な要素がある。まずは、何と言っても経済的な理由。仮に、バンクーバーから北極海までヒッチなしで向かっていたなら、移動費だけで数十万円というコストがかかっていたであろう。

ヒッチで移動すると、移動最中も旅となる。仮にバスに乗ってしまうと、大抵は車内で寝て過ごすであろう。それは非常に勿体無い。確かに、ヒッチにはかなりの危険性も伴う。決して女の子一人は薦めない。アジア諸国では私はほとんどバスを利用している。アメリカ本土ではヒッチはしなかった。

運転手は色々な意図で我々を乗せてくれるが、大体は暇潰しの話相手欲しさである。もちろん、まあ乗せてやろうって気の人も少なくないが。地元の人に乗せてもらうと、地元の人からでしか聞けないガイドブックには載っていない面白い話を耳にする。観光客が乗せてくれる場合も、お互いの国の事など情報交換できる。仲良くなって方向が同じなら、そのまま目的地まで乗せてくれることもある。

待ち時間が長い分、乗せてもらった人々の温かさは身に染みて感じる。もしできるなら、運転手にささやかなお礼はすべし。それは、お金を渡すのではなくて、温かい気持ちをもらったのだから、こちらも温かい気持ちで返す。人によくされたり、良い情報をもらった後は、私は必ずそれを他の誰かに返すようにしてる。すると、面白いものでまた自分に返ってくる。世の中はこれの繰り返しだ。

とにかく、「旅」は辛い。「かわいい子には旅させよ」という言い伝えがあるが、これはその言葉通りである。高い銭を払ってluxuryを求めたならば、本当の旅は味わえず表面しか経験できない何とも哀れな旅になるはず。そういう旅しかできない連中がまた他人に旅を語る。そして、それを聞きつけたくだらん旅行会社が、彼らの欲求を満たすような更にくだらんツアーを考える。お金が物事の本質を台無しにしているのは旅だけじゃないはずだ。

一旦、「辛さ」、「楽しさ」の両方を経験した後に、ふと我に返るとたくましくなった自分に気づく。それは、「自信」へとつながるが、この「自信」は決して「過信」ではないことにも気づくはず。楽しい部分に隠れてる辛い部分を体が嫌というほど覚えていて、その感情が常に自分を謙虚にしてくれるからだ。

〜頭脳・心理編〜

さて、最後にヒッチハイクの上級編をここに紹介する。基本的なルールを把握したら、あとは応用編。

ヒッチハイクはある意味、人と人との駆け引きでもある。つまり、相手側をこっちの間に引き込めばこっちの勝ちだ。それには色々な方法があり、そのいくつかを紹介する。

・笑って立つ

笑顔で立って運転手の恐怖感を和らげる。しかし、余りにも笑い過ぎるとかえって不気味なので注意。

・サインボード

私は基本的にはボードを持たないが、アラスカに行く時は移動距離が長かったので始めから持つ事にした。その使いようは様々で、普通は目的地の地名を書くだけ。しかし、それを更に発展させ運転手の心理をくすぐる。下記に、私が行った作戦をいくつか書いてみる。

・・・わざと遠い地名を書く。これは運転手の同情を引く効果的な方法。

「かわいそうやから乗せてやろう。」

といった同情を引き出す。ただ、余りにも行き先が遠いので、

「ちょっとしか進まないから、逆に申し訳ないな。」

という逆の発想も起こりかねないのでこれも運次第。

・・・ヒッチボードにわざと多くの文字を書く。行き先以外に多く文字を書く事によって、運転手の読みたいという気を引く。すると、間違いなく運転手は目の前でスピードを落し読もうとし、その内容が面白いと笑って停まってくれることがある。これはかなり効果的。

・・・逆の方向を書く。行き先と逆の地名を書き、親切な運転手が停まって指摘してくれるのを待つ。

・・・ヒッチボードを芸術的カラフルにする。

・辛い格好をする

長時間待っているという辛さを体全面で表現する。これは田舎に行くほど効果的。

・歩きながらヒッチをする

これは皆がよくやる方法だが、運転手の我々に対する恐怖感をかなり和らげる。つまり、実際に目的地へ向かっていて、車を襲うつもりでないと分からせる事ができる。しかし、重たい荷物を持っての歩きながらのヒッチは少々辛い。

・車道のできるだけ近くでヒッチする

これは少々危険だが、

「分かった、分かった、乗せてやるよ。」

という運転手の同情を引ける事がある。

一つ一番肝心な事を忘れていた。それは、ヒッチの最中は絶対恥ずかしがらないってことだ。以上。

 

 

アメリカ、メジャーリーグを通じて

私は小学生の時から野球を始め、高校からはハンドボールを始めたが、私の中ではスポーツと言えばいつも野球があった。J-リーグが人気を得だした時も、私には全く興味なく、ハンドボールをしている時も、私はいつも野球を意識していた。

アメリカのメジャーリーグは、子供の頃から一度は生で見たいと思っていた。テレビでたまに見るメジャーのプレーは、そのパワー、日本のプロ野球とは違う華麗さにいつも尊敬の眼差しだった。野茂がアメリカに渡った年の秋に、日米野球を見にわざわざ東京ドームまで足を運んだ。あの時に初めてメジャーの選手を目の当たりにしたが、選手の身体の大きさ、パワー、そしてその迫力は衝撃だった。私はアメリカ滞在時に、シアトル、サンフランシスコ、オークランド、ロス、アナハイム、サンディエゴと6球場で計18試合メジャーリーグを観戦した。今は、長年の夢がかなった充実感でいっぱいで、一旦アメリカの野球を見ると、もう日本の野球は見られないというのが正直なところ。アメリカの野球は、野球それ自体もそうだが、観客のレベル、エンターテイメント性、選手のプロとしての意識等、日本に比べてはるかに進んでいるからだ。

「とにかく、野球が楽しい。」

それがメジャーから受けた正直な印象である。

アメリカのプロスポーツは庶民の生活にすっかり溶け込んでいる。そのせいか、球場に足を運ぶお客さんは野球をよく知っている。そのことも選手は承知で、選手はファンをすごく大事にする。試合開始前は、選手がお客さんにサインをする光景をよく目にし、ファンとの様々なイベントもある。選手たちもそうやって育ってきたのであろう。攻撃の交代時は、ビジョンを使ったアトラクションがある。それは球場側からのお客さんへの持て成しで、子供用のアトラクションも球場内に多くある。7回裏には「セブンスイニングストレッチ」があって、みんなで立ち上がってストレッチをし、ダンシングタイムが始まる。子供は遊園地感覚で球場に足を運んでいる感じだ。

試合前には国歌斉唱がある。私はこの時間帯が大好きだ。選手も練習を止め、我々も起立、脱帽して、全員が国旗に注目して場内が一帯となる。それに、アメリカ人の愛国心も肌で感じられ、もちろんカナダ人もそうである。アジア系、ヒスパニック系の移民はそれほどでもないが、白人と黒人の愛国心は相当なものだったように感じた。球場にラッパや太鼓を使ったうるさい応援はない。その分、「動」と「静」が強調され、一つ一つのプレーが目立つ。いいプレーには大歓声で、悪いプレーには見方の選手に対してもブーイングが起こる。非常にめりはりがあり、その分盛り上がる時はその度合いも強調される。

今は、日本人選手がアメリカに渡る時代になった。それにより、日本人観光客も各地で多くなったが、熱しやすく冷めやすい情報に簡単に流される日本人気質が球場内にも反映されている。人に迷惑を平気でかけ、特に閉鎖的な日本人の国民性は球場内でも強調され、固まって行動する連中がやりたい放題やっているのをよく目にする。それはマスコミ連中にも言えることだが、なぜマスコミ連中も固まって行動するのだろう。それは言葉の障害のせいであろうが、同じ情報を共有する協定を結ぶなら、あんなにも報道陣はいらないはず。過剰な報道が、無知な日本人の愚行に拍車を掛ける。報道陣としてのレベルの低さは、そのインタビューの質問を聞けば歴然だ。地元の人々は野球を楽しみに来ている。情報に流されて野球を知らず、周りに迷惑をかける連中は、球場には足を運ばないでほしい。ただでさえ日本は景気が悪いのに、日本円を海外に持ち出すような行為は止め、テレビを通じて自分たちではしゃげばいい。

それと、ミーハー日本人はマスコミに取りざたされる選手ばかりに集中する。日本人観光客はもっと野球を知ろう。メジャーリーグを見られるというのは本当に幸せなこと。特に、日本人選手の進出でよりアメリカの野球が我々に近くなった。私はメジャーから色々なことを教わり、自分の中の野球という概念が変わった。野球の素晴らしさを改めて知り、これからも私は野球と共に生きていくだろう。

最後に、メジャ−で活躍する日本人選手たちへ。過剰な報道陣、無知な日本人観光客に迷惑しているかもしれないが、あなたたちが活躍することはアメリカ在住の邦人にもすごくいい刺激になり、彼らにとってそのプレーを見ることが励みになり、何よりも日本人選手の活躍から祖国を感じ取っている。純な心を持って球場に足を運んでいる人も多くいる。そういった人のためにも、怪我することなくいつも元気な姿を我々に見せてほしい。

 

 

カナダ、アメリカの食生活を考える

アメリカの「食」と聞けば、イメージ的にfast foodで代表されるjunk系を思い浮かぶことであろう。油たっぷりのフライドポテト、ハンバーガー、ケチャップとマスタードたっぷりのホットドッグ。それらと共に水同様のバドワイザー。聞くだけで「不健康」という言葉が頭に浮かんでくる。実際、球場に足を運べば、それらを口にする人々を嫌でも目にすることになる。その一方、有機野菜、ビタミン剤と健康に気を遣う人々も多く、そういったお店をよく見かける。相対的に見ると、カナダの方が健康ブームへの関心は進んでいたかもしれない。

アメリカの食生活にいいイメージを持つ人は少ないが、そういう人にはカリフォルニアの野菜を是非体験してほしい。その品数、質、見た目は我々の度肝を抜く。さすが農業国というのを感じざるを得ない。そういった野菜に囲まれた地域の食生活はレベルが高い。おいしいレストランも多く、スーパーのビール売り場でも、バドワイザー、ミュラーとアメリカを代表するライト系のビールが棚の大部分を占める一般的なアメリカのお酒売り場に比べると、それらの数は圧倒的に少なく、少しお上品で、味を追求したビールがそのフェイスを占めることとなり、それが消費者のニーズなのだろう。私はそこに行くまでは、アメリカ人はjunk系のものばかり食べ、ライト系のビールをがばがば飲んでいるから太った人々が多いと思っていたが、その考えは見事に覆された。カリフォルニア米も低コストでうまい。いわゆるジャポニカ種は、粘りとこしがあり、味的にもコシヒカリ似でおいしい。

ハンバーガーと聞けば、皆fast food店の薄いハンバーガーを想像するが、ちゃんとしたレストランでハンバーガーを食べると、そのボリューム、味に驚かされる。Veg.用のレストランでは大豆を使った豆腐のハンバーガーが食べられ、マクドナルドで使われてる肉は会社が飼育する独自の肉が使われ、お客さんに出すまでの時間、ハンバーガーの一番いい状態というのが綿密に計算されていると聞いた。

バンクーバーのビールはむちゃくちゃうまい。こくがあり濃厚で、どのビールもレベルが高く、飲み屋の生ビールは止められん。これを飲むと日本のビールはもう飲めない。シアトルの飲み屋はビール工場を兼ねているところが多く、その飲み屋独自のビールが飲める。ビール好きの私にはたまらなかった。

どうしてもアメリカの食と聞くと、需要が多いjunk系がクローズアップされるのは事実だが、周りに流されなければそれ程悪いものでもない。カナダとアメリカの食生活はまた異なり、健康への取り組みはカナダの方が進んでいるように感じた。健康ということを考えれば、時間がない日本人に比べれば北米の方がはるかに進んでいる。コンビニ弁当に代表されるようなlazyな誘惑が至る所にある日本よりも。

 

 

コーヒー論争

私はバンクーバーではレストラン兼喫茶店で働いていたことがあった。そこで感じた事柄を少しまとめてみる。

まずは、何と言っても飲み物に砂糖を信じられないほど使う。いくら低カロリーのを使っても、あんなに使ったら普通の砂糖を使っているのと変わらず意味がない。低カロリーの砂糖の減りが他のと比べて断然速い。糖分の摂り過ぎで、蜂蜜もよく使う。もちろん、全員がそうではないが、その比率は高かった。

マーガリンよりは、断然バターの需要量の方が高い。あと、ピーナツバターやジャムもよく使う。パン、ベーグルには必ず何かつけて食べると言ってもいい。それも、つけ過ぎだ。healthy foodorganicが比較的popularな国だが、もっともっと日常的なところで気を遣えばいいのになっと私はいつも思っていた。この辺のところはよく分からない。単に、マスコミに茶化されて本当の意味での健康というのを理解していないのかもしれない。ジョギングしている人もよく見かけるのに。

アングロサクソンは喫茶店が大好き。中でも、ラテ、モカ、カプチーノといったところが人気だ。よくコーヒーのことも知っている。紅茶よりもコーヒーの需要の方が圧倒的に多い(イギリスは逆だ)。朝は、トーストやマフィンを食べ、新聞を読みながらコーヒーを飲む。私がいたお店の周りには他にも喫茶店がたくさんあったが、どこも流行っている。なんでこんなにカナダ人は喫茶店が好きなのか不思議で、私は忙しい時はいつも、

「コーヒーぐらい家で作って飲め。」

と心の中で叫んでいたが、ある日一緒に働いてる女の子に、

「カナダ人はなんでこんなに喫茶店が好きなの?

と聞いてみたら、

「だって、yummyだもん。」

と言っていた。

ある日、スーパーで買い物をしている時に私はあることに気づいた。そう、飲料売り場に缶コーヒーがないのだ。そして、コンビニにもない。缶飲料であるのはpop(炭酸系)ぐらい。私は、東京にいる時に一時期コンビニの陳列の飲料担当だったが、まず定番として棚の最上段にはいつも缶コーヒーがあった。そして、お茶、果樹・炭酸系、ペットという順番だった。私は日本にいる時から缶コーヒーが大好きで、新商品が出るといつも飲んでいたが、なぜこっちでは流行らないのか?その答えは、カナダ人はとにかく喫茶店が好きだからだ。缶コーヒーを飲むぐらいなら喫茶店に行く。値段も$1.00そこそこで、逆に忙しい日本人には、缶コーヒーの方が都合がいいのかもしれない。

私は仕事のある日は毎日、ただなのもあってコーヒーをマグカップに最低3杯は飲んでいた。多い時は5杯は飲む。そのほとんどがdark coffee。たまに、紅茶、ラテ、モカも飲むが、大体はコーヒーだ。なぜ、そこまでしてコーヒーが飲めるのか?コーヒー好きな私だがなぜ飽きが来ないのか?そう、こっちのコーヒーはうまいのだ。逆に、これに比べれば日本のコーヒーはまずい。と言うか、味がない。日本に行ったことのある連中には、

「なぜ日本のコーヒーはあんなに不味いの?

とよく聞かれた。

私がいた店は時間が経つと機械にコーヒーが残っていても、新しいのにすぐ代える(大体その前に売りきれるが)。お客さんもその辺はしっかりしていて、新聞を読みながらしばらく置いていたコーヒーがぬるくなると、新しいのを注文に来る人もいて、ぬるくなったのは飲まずに置いていく人もいる。それだけ、我々もお客さんもいいものを求めているおり、そうしないと商売が成り立たない。たかがコーヒーだけど、されどコーヒー。ちなみに、若者はそれほどでもないが、コーヒーはhotという概念でいる人が多いようだ。

タイで飲んだコーヒーは甘ったるかった。でも、うまく感じたのは、国が暑い分知らぬ間に体力を消耗して、体が糖分を要求していたためかもしれない。タイの缶コーヒー(レストランのコーヒーも)は本当に甘ったるかった。味よりもその甘さが印象に残っている。タイの食文化自体はっきりしている。国民が欲するのは、味がはっきりしたもの。タイ料理は基本的に辛い。デザート系は甘ったるい。気候も暑いという風にはっきりしているので、すべてがはっきりして気持ちがいい。タイでは、コーヒーの味自体が重要ではなく、要は十分に甘いか甘くないかが大事なような気がする。

ベトナムにいた時は、とにかくコーヒーが安くて私は毎朝飲んでいた(1杯約2,000ドン、15円ほど)。当然、庶民にも大人気で、朝はコーヒーとフォー(ラーメン)が私には定番だった。ベトナムはコーヒーの産地。ダラットなどの温暖で少し冷涼な高地では、紅茶、コーヒー栽培が盛んである。私は、毎朝カフェダ(ベトナム語でアイスコーヒーのこと。お腹の弱い人は氷は避けた方がいい)を飲んでいたが、今思えば味自体も悪くなかった。それは、単にベトナムのコーヒーが私に合っていたのかも知れないが、国にコーヒー文化が根づいているということは、それだけコーヒー自体洗練されているということだろう。今でも、たまにベトナムのコーヒーが懐かしくなる時もあって、実際ベトナムの1人用コーヒーメイカーを買って帰った。

今年に入って、アメリカのシアトルを拠点に持つ大手喫茶店会社Starbucksがヨーロッパ第1号店をスイスにopenさせ反響を呼んだ。2003年までその近隣諸国で650店舗をopenさせる予定らしいが、スイスでまず開店したねらいは、スイス自体イタリア、フランス、ドイツ文化が入り乱れてる分、成功すればその隣国でもうまく行くと経営陣は考えてるからだ。Starbucksは間違いなくヨーロッパでも根づくであろう。

では、日本はどうだろうか。日本食はhealthyで、だから日本のコーヒー自体、一般的にうす味で水っぽいとも考えられるが、実際に外資系の喫茶店が日本でも反響を呼んでいるのは、従来の日本の喫茶店よりもそれらのお店で味的にもおいしく、おいしいものを求めてる国民の素直な気持ちがこの結果を生み出している可能性もある。もしくは、単に流行に流されているだけなのか。何はどうあれうまいもんはうまい。

私はコーヒーの本当のおいしさをすでに味わったような気がして、もうまずいコーヒーは飲めないし飲みたくない。本当においしいコーヒーはおいしく、コーヒーが庶民に根づいて立派な産業として成り立ってるということは、それだけ洗練されているということが言える(例えるなら、札幌のラーメン産業)。日本では、コーヒーよりもお茶文化であろう。だから、外国かぶれ程度でコーヒー文化を導入するのではなくて、ちゃんとその本質を理解した正しい文化を日本にも定着させてほしい。コーヒーって本当にうまい。ブラックで飲むとその味が身に染みて分かる。

 

 

アメリカ同時多発テロついて

私はテロが起こる数日前までアメリカにいた。その2日前にカナダに戻り、テロが起こる前日に帰国用のチケットを取った。そして、その次の日の朝7時頃、

「マナブ、起きてテレビ見て。」

と一緒に住んでいたクリスタに起こされて、テレビでCNNを見て驚いた。始め、クリスタが何を言っているのか分からなかった。

「飛行機がNYworld trade buildingpentagonに激突したの。」

しかし、テレビを見て一気に眠気が覚めた。その光景はまるで映画を見ているようだった。

その日のうちに、アメリカ、カナダ間の国境は封鎖され、空港も閉鎖。我々が住んでいる家はバンクーバー国際空港から川を挟んですぐのところで、午後2時ごろ私は庭で小犬立ちと戯れている時に、ものすごい轟音が頭上を過ぎていった。その音には隣りに住んでいるクリスタのお母さん(ジャン)も出てきて、早速パイロットであるクリスタのお父さん(リー)に連絡を取ってくれた。サンフランシスコに着陸するはずのチャイナエアー機が急遽バンクーバーに着陸することになったが、地理の分からないパイロットに空港から指示を送っていたが、このパイロットは英語が理解できなかった。そのため、この出来事が起こったわけだが、私はどこかに飛行機が墜落したと思った。それぐらいすごい音だった。

その後、downtownに用事があって行ってみると、普段は出ることのない号外がバンクーバーの地元紙「the Vancouver Sun」、「Province」から発行され、街行く人々が読んでいた。私は帰りの飛行機が心配になってエアカナダのofficeに行ってみたが長蛇の列がそこにあった。Office内はもとより、外の通路、建物の外の通りまで人があふれていた。ルームメートのクリスタとデイビットも色々心配してくれ、パイロットのリーも、

「我々も空港の復帰と、今後どうなるかは見当が付かない。」

と話してくれた。

帰国時も、その数日前にようやく空港が復活し、帰国当日はまだ70%の運営状態だった。乗客すべてが空港の外で待たされ、中では厳重な警戒。私は運良くテロの前にブッキングしていたので、難なく搭乗手続きも終えた。ただ、外で待っている時の日本人の情けなさは見ているだけで恥ずかしかった。

「こんなことめったにないから、記念撮影しとこか。」

とあほなツアー客が集まっての記念撮影が至る所であった。彼らはピースサインしていた。これが今の日本人の象徴だとは思うが。添乗員も自分たちのお客さんへのケアは必死だが、それで周りに迷惑を掛けていることに全く気づいていない。私が乗る便がコールされ、みんな列になって移動というのに、列の最後尾にいたはずの客を添乗員が引っ張り、列をかき分けて前に入っていった。信じられん行動だ。

我々もバンクーバーという地ではあるが、今回のテロについて色々話をした。リーはパイロットの立場から、ハイジャック犯の操縦技術を高く評価していた。デイビットは教育者なので、子供たちに今回のことを説明すると、涙を流す生徒もいたという。一般的に、カナダ人はアメリカのことを嫌っている。というか、アメリカのことをよく思っているのは、世界でミーハーな日本人ぐらいだ。それだけアメリカ人は嫌われている。私もアメリカでの生活、旅しているアメリカ人との会話、諸外国の人々のアメリカへの反応を聞いて、同じように思う。一度、NZに留学していたブラジル人に、なぜ近いアメリカに留学に行かないのか聞いてみたら、

「あんな国行くわけないでしょ。」

と怒っていた。

我々が話していた内容は、ほとんどが今回のテロから起こりうるアメリカの報復についてだ。我々の結論は、

「今まで散々悪いことを世界にして来たのだから、今回はその罰だね。」

である。デイビットは、

「今回のテロを利用して、多くの不法滞在者は死んだことにして新しい生活を始めるのではないか。アメリカはアメリカばかり被害に遭っていると思ってるようだが、世界貿易センタービルって事は色々な国の人々が働いていたはず。しかし、掲げるのは星条旗だけ。」

と批判していた。全くその通りの意見だ。

アメリカは本当にどうしようもない国だ。世界のルールを作っているのはアメリカであるのは確かだが、それにしてもどうしようもない。イラクやアフガンに攻撃する資金があるのなら、自国の失業者、ホームレス問題にその資金を投入すべき。確かに今回のテロは許すまじき行為。世界貿易センターでは何の罪もない人々の命が犠牲になった。ただ、その後のアメリカ国民の意思統一は自発的で、その愛国心は感心する。「日の丸」問題でくだらん争いをしてるどこかの国とはえらい違いだ。「日の丸」を徹底的に批判するなら、オリンピックでの「日の丸」掲揚も妨害しに行け。日本人が金メダル取って、表彰台の日の丸には感動かい。全くわけ分からん。

何の罪もない人々が多数殺されたが、アメリカは何の罪もない人々を多数殺してきた。関係のないところにまでもミサイルをぶち込んだ。でも、その否を正当化する。それが、アメリカの映画産業にも反映され、「プラトーン」のようにオスカー受賞という結果がアメリカの国民性を表している。アメリカがやっていることは「世界」のためではなく、あくまでも「アメリカ中心の世界」のためだ。協力を約束したパキスタンには、今度は支援という名目の賄賂だ。日本も同じようなことをしている。やっていることが無茶苦茶だ。世界各国に、

「敵になるのか、味方になるのかはっきりしろ。」

と脅しているだけだ。

今回の事件を、結局いつものように武力で解決して、

「アメリカはいつも正しい。」

と結論つけるようなら、益々アメリカ国民を付け上がらせる。今回を機に、アメリカが世界に置かれている立場をもっと国民が考えるべき。そうじゃないと、犠牲になった人々は浮かばれないし、これからも益々多くの犠牲者が出ることになるかもしれない。日本もそうで、いつまでもアメリカに服従するのではなく、強い態度で望むべき。意志を明確にして、「いいのはいい、悪いのは悪い」という態度に出ないと、いつまでもアメリカのぱしりからは解放されない。